琵琶湖疏水

先輩の話 - もののはずみ

この間久しぶりにこの人に会ったのでその話をしたい。

4月に異動してから4ヶ月くらいの間に、あらかた会いたい人には会いに行ったのだが、この人には会っていなかった。そもそも異動の挨拶だって内線でしたのだ。会いに行ってうるさがられるのが怖かった。

異動してから三度電話をかけた。一度目は、「〜は帰りました」と言われた。「わっ…………かりました」とかろうじて返事をすると、「冗談に決まってるじゃん」と言われた。二度目は、「〜さんですか」と聞くと、「誰でしょう」と言われた。三度目に同じことを聞くと、「違います」と言われた。

でも全部親切に対応してくれた。一度目なんか、ちゃんと休みは取れるのと聞いてくれたので涙が出そうになった。

機会があるたびにこの人のいる部屋に行っていたけどいつもいなかった。当然と言えば当然で、私は業務時間外にしか行かなかったからだ。朝早く、昼休み、定時過ぎ。業務時間中に行って、「仕事してるんですけど」って顔されたら傷つくなあと思ったのでそうした。

が、とうとう我慢ならなくなって、この間初めて業務時間中にそこに行った。三度も電話して迷惑をかけたんだから一言お礼とお詫びくらい言ったっていいだろう、という理由をつけた。お詫びのお菓子を買って行って、でも仲のいい他の同僚に横流しすることは明白だったので、本人ではなく彼女の好みに合うようなものを見繕った。

体の丈夫な人ではなかったので当日仕事を休んでいる可能性も考えて、机に置いても悪目立ちしないような包装をして、「お詫びのお菓子です 横流し可」と書いた付箋まであらかじめ準備した。でも当日果たしてその人はそこにいた。あんまり長い間会わなかったせいで顔を忘れていて、こんな顔してたっけ、と思った。

忙しいのに何回も電話してすみません、と言うと、そうだよぼくそれどころじゃないんだから、と言われ、悪かったなと反省しかけたところに鉛筆でやたらめったら書き込んだ跡のある紙を示された。県内の高校の一覧だった。今度は二番目の子が受験だからと言うその人の一番上の子の合格通知を私は見たことがある。見たい?と聞くから、見せたいんだろうな、と思って、見たいです、見せてくださいよお、と言ったんだった。確かにそうやって見せびらかしたくなるのももっともで、と言うのはその学校は非常に名の知れた名門トップ校だったからだ。

だからこれお詫びです、と渡して、次にその人が口を開く前に「〜さんに横流ししていいですよ」と言うと、「じゃあ今から〜さんところに行こう」と言われたので流石に驚いた。なんだこれ、と思いながら一緒に階段を上っているときに、姫、と呼びかけられた。それはその人だけが使う私の蔑称で、ゆとりで、箱入りで、気が利かないから姫だった。姫、そっちはどう。いつもわざと意地悪なことばかり言うその人にしてはあまりにも普通のことを言うので面食らってしまい、つい、いやー向いてないですね、と素直に答えてしまった。優しいから心配するかも知れないと不安になり、でも残業は全然ないですよ、と訳のわからないフォローまで入れた。最近7時とかでも気がついたらみんな帰ってるから慌てて帰るんですよ。その後なんと返されたかは覚えていない。

目当ての人が私を認めてあだ名を呼んだ時、一気に懐かしくなった。前にも私のあげたお菓子がこの人に横流しされた時、わざわざ電話でお礼を言ってくれたから、声を聞くのはそうでもないけど会うのは随分久しぶりだった。

彼女は彼女と私とこの人が同じ島で机を並べていた時、この人が私に対していかにいじわるだったか並べ立てた。姑みたいだった、と言う。当時から彼女はそう言っていて、「(私)さんには男のお姑さんがいますね」と言ったんだった。確かに姑みたいだったけど、後にも先にも私の姑は〜さんだけなんです、と思って、どう言えばいいかわからなくて言うのをやめた。

別れ際に「(私)さんはこれからどんどん羽ばたいていくんですねえ、私は万年ヒラでやっていきます」などと言うので(この敬語は当然いやみったらしいニュアンスであって、別に目下の人間にも敬語で接する丁寧な人という訳ではない)、いやいや早く出世して私を部下にしてくださいよ、と何遍も繰り返し言ったことをもう一度言った。

あとで、元気そうでよかったな、と思って、その時にやっと「元気ですか?」と聞き忘れたことに思い至った。いつも聞かれるばかりだったから、一度くらい私からも聞けばよかった。