先輩の話

 去年の仕事のうちひとつは天文学的な金額のお金を動かすことだった。
 私はお金を扱うのが怖くて絶対にやりたくなくて、だから就職活動で練習とばかりに手当たり次第にいろんな会社の面接を受けに行ったときも銀行は受けなかった。万が一億が一受かってしまったら、そしてそこにしか受からなくて行くことになったら困るからだ。

 私と上司しか残っていなかった残業中、私の隣の席に腰を下ろした上司から翌年度は私にその仕事をやってもらおうと思うという旨のことを言われたときは目の前が真っ暗になった。上司はいつものようにちょっと困った最高にキュートな笑顔で、だいじょうぶだからそんな顔しなくていいと言った。大丈夫ではない。
 結果から言えば「大丈夫」と自信満々には言えないまでも大きな失敗はしなかった。というのも、私はただ右から左にお金を動かすだけで、右から言われたことを左に伝え、左から言われたことも右に伝え、その伝達に誤りがなければ私が自分の頭で考えることはほとんどなかったからだ。毎年同じことを繰り返す仕事だったので、「言われたこと」の範囲外は過去の記録を見ればすんだ。
 ただひとつ、例年にない大きなイレギュラーがあった。その頃には私は自分のすべきことがある程度分かっていたから、まず過去に同様のイレギュラーが生じていないかを調べた。記録に残っている範囲で一度だけ起こっていたことが分かったので、膨大な書類の中からそれを見つけ出した。よしよしと思った。不安は不安だったが、過去の記録を見ればすべきことは分かるし、準備ができる。何をすればいいか見当もつかないよりずっといい。と思いきや、その一度では担当者が失敗して大きな損害を引き起こしていた。記録には当時の係長がどうにか失敗を取り返せないか頼みに行って断られたこと、迷惑を掛けた先に課長が頭を下げに出向いたことが書いてあった。絶望した。
 その時にとても助けてくれたのが先輩(と言ってもだいぶ年上だった)だった。この人はもともととても真面目で優しくて面白く親切で面倒見がよく、そういう美点を隠そうと日頃なにかにつけ私をくさしたりからかったりしていたが、困っていると一番に気付いてくれて、絶対に助けてくれていた。そして、たまたま、私のしていたのと類似の仕事の経験があって、このイレギュラーについても一定の知識があった。
 先輩は書類を見て私が全く気付いていない留意点を教え、私がさっぱり分からない様子なのを見て私の代わりに電話をかけ、私の代わりに上司に説明し、私が助けてくださいと言ったらやだ!と言いつつ結局話を聞き、しかるべき人のところに私を連れて質問に行き、私に言い忘れていたことがあったら気に病んで翌朝に私に謝りに来て、しょっちゅう私のところにやってきては大丈夫なのか聞いた。げんき?としょっちゅう聞くので、ふつうです、とか、まあまあです、とか、とにかく「元気です」以外の答えを返すと、ふうん、げんきじゃないんだぁ、と言いながら立ち去った。
 そんなふうなのに、本人は私を「いつもいじめている」と言っていた。一緒に出張に行ったときだってお昼を奢ってくれて、これ以上親切にしてもらうわけにいかないのでだいぶ強く断ったのだが、「いつもいじめてるから」と言って結局払わせてくれなかった。それどころか、何度もいらないと言ったのに私の注文に半ば強引にケーキを追加させた。

 私は自分の人間性に対してかなり人に恵まれている方だと思うし、事実去年私の身近にいた人たちは、みんな優しくて親切で真面目でいい人たちばかりだった。そんな中でもこの人は別格だった。先輩は私の上司ではなく、教育係でもなく、副任でも、前任でもなかった。その上私は本当に使えなくて、この人にもたくさん迷惑を掛けたのだから、私の面倒を見てやる義務も義理も、ぜんぜんなかったはずなのだ。なに泣きそうな顔してるの、とか、もう、気が利かないんだから、とか、言わなくてもよかったし、私にチョコレートとか缶コーヒーとかハンドクリームとか、やらなくても全然よかった。それに、今だって、きっとよろこばしいことに私とはもう何の関係もないのだから、すれちがいざまに挨拶してやる必要だって全然ない。私が気付いていないのに、やっほー、とか、わざわざ声かけてよろこばせる必要なんて全然ないのに。

 先輩はふつう下っ端がやるようなこまごました仕事が得意で、よく付箋だのボールペンだのといった共用の消耗品を補充して整理していた。そういったものが入っていた空箱をきれいに切って、キャビネットの引き出しに入れて仕切りにし、隙間なく、でも取り出しにくくない程度に中身をきっちり詰める。数日前、その箱に付箋を補充しながら、ああこんなにぎちぎちに詰めたら気が利かないって言われるな、と思ってから、もうそんなことを私に言ってくれる人はいないんだなと気がついた。