さん付けで呼ばなくていいけどさあ

この文章がずっと下書きに残っていた。多分半年以上。

 

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私の人格の善いところ(あるとすれば)は概ね私によくしてくれた誰かの善いところの模倣でできていて、私は私のことを一番信用していないので自分の生来の性質は好きになれないけど誰かに由来するものならかろうじて善いものだと多少は思えるような気がする。

そうやって出来上がった自分の特定のいくつかの教義を私は変えるつもりは一切なく、ましてや他人がこれを変えさせようとするなら絶対に従わないと思っていた。

のですが、そのうちのいくらかについて、ある時は多少、またある時はかなり抵抗したものの最終的には手放したこと、そしてそれが男のためであること、希望を汲んだとはいえ強制されたわけでもないのに自分からそのようにしたこと、について、ここに来て人生がここまで変わることがあるんだな〜〜という単純な驚きが1割、あとの9割は自分に失望している。

人生変わったって言っても何も起こってません。ただ、今までずっと「いや、他人を所有することはできないし、私は私のものでしかないんであなたのものではないし他の誰のものでもないです」って毎回反論してたのをやめて「はい」って言っただけの話

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「人は自分以外の人間を所有することはできない(不可能でもあり禁止でもある)」というのは私の教義の中ではかなり大きい。大きかった。保護者と被保護者の間であろうとそれは「所有」であるべきではないし、いわんや成人した者同士をやである。フィクションならともかく、現実でのロマンチックな文脈で他人(「他人」という語の用法も他人と争ったことがある。私は自分以外の全員、親だろうが恋人だろうが、とにかく自分でない者のすべてを他人と呼ぶ)に所有格を付けることは決して許せない行いだった。

そういうわけで数か月間私の名に私以外の所有格が前置される度にしつこく「違います」と言っていたが、とうとう折れた時負けたと思った。私が(固有名詞)に負けたのではない。私の倫理観が私の性癖、性欲と言った方が近いかもしれないけど、に負けたと思った。

それからだいぶ経って、もういちいち負けたとか思わないが、未だに私は誰の名の前にも「私の」と付けたいとは思わない。