マリアの指

読んだ小説とは別の小説のタイトルを感想文の題にするぜ

 
 実際に読んだのは中村文則『遮光』です。
「切断された女の指をホルマリン漬けにして持つ」というモチーフはどうしても乙一『マリアの指』を連想させるのです。
 
 この両者で異なるのは各々の主人公の狂い方でしょう。『遮光』に於いては主人公は狂いたくとも中々狂えず、そのせいで延々苦しむ訳ですが、そういう意味では『マリアの指』では主人公は無意識の内に狂っている。
 
 「狂う」という言い方は良くありませんね。『遮光』の主人公は狂っていると言えば最初から狂っている。
 極度の虚言癖だとか、演技癖(と言えば良いのか)という点では明らかに狂っている。しかし、「他の全てがどうでもよく、ただその指しか見えず・望まないような状態」という本人の望む狂気には至ることが出来ない。対して『マリアの指』の主人公は割と近い境地にいるんですよね。指の持ち主への執着という点では明らかに『遮光』に分があるにも拘らず。
 
 『遮光』の主人公は「殆ど真実を話していない」と言っても過言ではない程嘘を——それも、何の意味があるのかわからないものが多くを占める——吐くのですが、それと共に常に演技をしている。「相手が望んでいる自分」や「自分がそうありたいと望む自分」を演じる、というのであればまだ理解できるし、またありがちでもあるのですが、必ずしもそうではない。だからシンジさん(及び読者)は彼を気持ち悪いと感じる訳です。
 
    意味が分からない、得体が知れない、と思いながらも我々に分かるのは「美紀の死は重大なことであった」と主人公自身が認識していることです。埋め合わせるために奇行に走らねばならないような、決して忘れたり慣れたりするはずのないような。
 
 本当に?
そう思いたい・思おうと・思わせようとしているのではなくて?
という疑いに常に揺さぶられながら、彼はどうにかして狂いたい。疑いもなく真実であるという確信が欲しい。
 
    共感し難い虚言や演技の中にありながら、ここだけはよく分かる。
 
私は本当に怒っているのか?
私は本当に悲しんでいるのか?
私は本当にこれをそこまで大事に思っているのか?
全ては、他者のみならず自分にも向けた演技であり、ただの「ふり」ではないのか?
とかいうことは、普通の人も考えるでしょう。私は割と考えます。
    私は、もしかすると自分が本当は大して怒っていないし悲しんでいないし大事に思っていないかもしれないということに気付きたくない。そうではないと思おうとするし、そんな疑いすら生じない程強い感情を抱ければいいのにと思う。
 
    だからこの結末は凄く羨ましい。
    私は割に「可哀想」とすぐ思ってしまう方で、しかもこの主人公は私が「可哀想」と思うような要素がいっぱいある。でも、微塵も可哀想だとは思わなかった。ただ羨ましい。
    自分が求めたかったように・求められたかったように求め・求められたのだから、私はただ良かったねと思うべきなんだろう。しかし素直に安堵し祝福する気にはなれない。妬ましいからだ。
    私はこんな意味の分からない嘘だってつかないし、ふと暴力的になったりなんてしないのに。どうして私でなくお前のような人間が望むように狂えるのか。
という八つ当たりじみた気持ちがかなりある。
 
とてもとっ散らかった感想になってしまった。とりあえず、「こういう小説はすごく好きです!!!!!!」ということが言いたかったんです。伝わらないけど!!!!