zokasAgara

 (昨日の続き)

 昨日ああは言ったものの、いや書いたものの、いざとなると怖じ気づいてしまって何も見ていない。

 それは一つにはもちろん┌(┌ ^o^)┐が苦手というのもあるのだけど、顔見知りの人間の作品を見るのが異常に恥ずかしいというのもある。

 こうなったのは多分中学生の頃からだと思う。小学生の時は絵を描く女の子というのはいっぱいいて、私の交友関係の中では漫画を描く人はいなかったが、それでもストーリー仕立ての絵なんかは沢山見た覚えがある。この頃は(やはり私の交友関係の中では、という前提だが)文章を書いている人はいなかった。まあとにかく、私はその頃は人が描いたものを見ることに何の抵抗も無かったし、普通に笑って見ていた。

 中学生になってから、明確に「恥ずかしい」と思ったことがあったのを覚えている。当時、私の友人は美術部に所属している人が圧倒的に多かった(私は違った)。ある時美術部の中で、文章・絵・漫画を交えてある一つの物語を何人かで作るということが行われていた。交換ノートのような感じで、回ってきた人は絵なり文章なりをある程度描/書いて物語を進める訳です(多分。私は参加していなかったので何か勘違いしているかもしれない)。それは別にこそこそしたものではなくて、私もそれについて彼女らが話すのをよく聞いていたし、何のためらいもなく見せてくれた。どの絵も文章も上手かったし、何一つ痛い要素は無かった。何年後かに見て「あの頃は何て恥ずかしいことを…!」と転げ回らなければならないような、そういうものでは全く無かった。今見ても鑑賞に堪え得るようなものだと思う(当人達は少しは恥ずかしいかもしれないが)。

 でも恥ずかしかった。普通恥ずかしいのは見る側じゃなくて見せる側だろうし、好意で見せてもらっておきながら、内容に何の問題も無いのに恥ずかしがるなんて相当失礼だろうと思うのだが、でも何か恥ずかしかった。

 見ている時に「これをあの人が描/書いたんだなあ」と当人を想像できてしまうことが問題なんじゃないかと思うけど、一方で「見ている時に当人を想像したからといってなぜ恥ずかしいのか」というところまで訊かれるとうまく説明できない。

 

 

 「他人に起こった理不尽な出来事を聞いて当人以上に怒ってしまう(偽善)」問題について。

 どうしてこうなるのか何となく予想がついてきた。「怒ってしまう」のはある種の演技であって、私は本当には全く、あるいはあまり怒っていない。しかしどうして怒っているような態度を取ってしまうのかと言うと、もちろん「他人に起こった理不尽な出来事を聞いて当人以上に怒る友人(等)思いのアテクシ」を演出したい偽善的な気持ちもあるのだろう。でもそれに加えて、それを聞いた際の落ち込みを隠したいのだ。

 そのような出来事を聞いて、怒りはしないとは言えども悲しかったり落ち込んだりはする訳です。特に相手が自分にとって大事な人物であるような場合は。そして、絶対にできないことは分かっているくせに「私が助けたかった」「それができないならせめて一緒にいたかった」とか何とか考えて、最終的に「どうして私のような塵ではなくあなたがそのような目に遭わなければいけないのか」になってすごく精神的に打撃を受けるのです。でも、実際にそのような体験をしたのは私ではなく相手であって、何にも辛いことを体験していない私が当人以上にショックを受けたり落ち込んだりするのは完全にお門違いであり、多分腹立たしいことでしょう。何を生温いことを言っているのかと。しかも、私が当人以上に落ち込んだことによって、当人が更に落ち込む危険性すらある。

 それならせめて義憤にかられている自分に酔っている格好をしたほうが、怒っているふりをしたほうが、そのような意味での不興は買わないで済むんじゃないかと考えてやっていることなのかなあこれは、と思った。