見えない

 見たくないものが見えない。

 昔、美学のレポートで、「結局のところ、人は芸術を見たいようにしか見えないし、聞きたいようにしか聞けない」というようなことを書いた覚えがある。
 私の今の業務には人の悪いところを見つけて直させるようなたぐいのものが含まれていて、ときどき、いやしょっちゅう、絶対に見落としてはいけないものを見落とす。
 見るのを忘れているのではない。これを見なければいけないという箇所は知っている。そこで、「~がないか見なければ」と思って、見る。それなのに見つけられない。見つけるのがこわいから。
 見えているのに見なかったことにした、という意識すらない。~があったらいやだなと思うから見ないようにしていて、だから最初からまともに見ていない。という自覚もない。

 思えば以前から他人の過ちを見つけるのが異様に怖かった。たくさんの人から書類を集めなければならない仕事をしていたとき、封筒を開くのが怖かった。封筒を開いたら、中に入っている書類が間違っていることに気付いてしまうからだ。そのときは、先方に間違いを指摘して修正させることの気の重さと、それによりスケジュールが遅れることへの恐れがあるからだと思っていた。でも、それだけではないような気がする。誰かが間違っているという事実、そしてそれに気付いてしまうこと、それ自体が既に怖い。
 
 それでも最近は以前よりほんの少しだけ見えるようになった。私は見なければいけないし、目を開く勇気ぐらい持たなければならない。