なんでわたしはすぐ泣いてしまうのか

 去年までお世話になった先輩の話をしたから今度はいまお世話になっている先輩の話を書こうと思っていたがだいぶ憤懣やるかたないことが起きたのでその話をします。

 

 今所属している係には(今後悪化はしても改善・解決することはおそらくないだろう)人間関係の問題がある。ひとりは若い女の子でひとりが私より上の男の人。若い女の子、も私より年上ではあるが敢えて「女の子」と書く。いちいち書くのがめんどうなので、男性を仮にサトウさん、女性をスズキさんとする。
 私が今の係に来る前からそうだったらしいが、遠い席に座っていたので全然気がついていなかった。今思い返してみるといつ気がついたのか(あるいは誰かから教えられたのか)まったく思い出せない。同じ業務を共有して、ものすごくよくしてもらっている先輩が、サトウさんいろいろ大変だからやさしくしてやってね、と言うのを助手席で聞いていたときは何一つ気がついていなかったことだけは確かだ。そんなに業務が偏っているのかなあ、かわいそうに、と思った。頭が悪い。察しも絶望的に悪い。
 
 何度かサトウさんが声を荒げるような事態があり、まあそりゃあんな言い方や態度は誰だって怒るでしょうよというようなことが原因だったけどなにしろ男の人が自分より下の若い女の人に対してというのでだいぶ分が悪いわけです。何人かが上司から事情聴取を受け、恐らくは私を含めた全員がサトウさんは悪くありませんと言った。
 話の分かる上司に先輩がどうかサトウさんのキャリアに傷がつかないようにしてほしいと言い、私はスズキさんが男性ならよかったんですかと言った。上司はいくら話が分かると言っても上司であるので、私の質問の形をした八つ当たりには答えなかった。

 私はスズキさんのことも割に好きだ。悪い子じゃないんだけどなあと思う。私に対してはやさしいしよくしゃべってよく笑う基本的には感じのいい子だと思う。
 よくかっこいい車に乗せてくれるとてもきれいな女の人が、スズキさんは子供みたいなところがあるから、と言っていた。たぶんその通りで、スズキさんはいやなことは聞きたくないしめんどうなことはやりたくないしなんでわたしがこんなことしなくちゃいけないのって思ったら全部口に出して言ってしまう。それだけ。サトウさんを貶めてやるみたいな深い悪意があるわけでもなんでもない。ただ悪い意味で極度に自分に素直である。誰かに正論で諭されたらだってなんとかくんがこう言うからとかだれだれさんにこう言われたからとか口をとがらせる。容姿は結構かわいい。
 悪い子じゃない。私が仕事を手伝ったらおかしをくれる。コーヒーを買ってくれる。ごめんね手伝わせて、自分の仕事できなかったでしょう、と言ってくれる。目的地まで電車で行けるから大丈夫ですと言っても車で迎えに来てくれる。にこにこして美味しい食事に誘ってくれる。悪い子じゃない。でも悪い人ではないと言うことはできない。
 悪意があって攻撃しているというつもりじゃないから、困ったことにスズキさんはたぶん自分が理不尽にいじめられていると思って、それで真剣にストレスをうけている。それはそれで気の毒ではある。ずっとあの調子ならこれまでだって買わなくていい怒りを買うこともあったろうに今までだれも教えてあげなかったのかなと思う。でも先輩(スズキさんと同期で、精神的に大変に成熟している)が何度も諭した結果が「だって~くんがこう言うから」だったので、いろんな人が教えてあげて全部空振りだったのかもしれない。

 サトウさんはスズキさんのいないところでこの件についてみんなに謝る。スズキさんに対して本当に腹に据えかねていることを冗談めかして話す。スズキさんは何も語らない。少なくとも私に対しては何事もなかったかのようにその話題を丁寧に避ける。私と二人のときくらい何か言ってくれたら多少は有用なことを言えるかもしれない気がするときがある。ああいう言い方はよしたほうがいいんじゃないですかとこっそり言ってあげた方がいいんじゃないかと本当に迷ったこともある。でも言わない。


 というのが長い長い前置きである。
 先日部署の飲み会があった。そこでサトウさん私のところへやってきて、この件についてひとしきり謝罪したあと、まだ係長にも言ってないんだけど、と切り出した。まえから他の部署から異動しないか誘われてて、今まで今の仕事がおもしろいからって断ってたんだけど、こんな状態だし、受けようと思ってるんだよね。
 どうしてサトウさんが気遣ったり割食ったりしないといけないんですか、サトウさん悪くないじゃないですか、納得がいきませんと憤慨する私をサトウさんがまあまあと宥め、たぶん俺来年は係は変わるだろうけど同じ課内にいたらまたみんなに迷惑をかけると思うし、まあ良いタイミングだし、みたいなことを言った。私は今まで冗談半分で本人に向かってこのあいだサトウさんがキレた時泣いちゃうかと思いましたよとかサトウさんとスズキさんと私で出張行くときの緊張感やばいですとか気軽に言ってしまっていたことをかなり後悔した。
 私は、えー、とか、いや、私にコメントする権利はないですしサトウさんがお決めになることですけど、とかぐちゃぐちゃ言いながらビールをのみ、皿の上の焼き魚をほじくりまわした。たぶん私だってサトウさんの立場なら同じように考えて同じ選択をすると思う。でもいやだった。
 飛ばされるわけじゃないからきっとサトウさんのキャリアの傷には、少なくとも誰にでも視認できるような明らかな傷にはならないんじゃないかと思う。せめてそうであってほしかった。

 

 帰りにサトウさんが車で送ってくれ(サトウさんは基本的にお酒をのまない)、いつもなら乗った場所から一番近い駅で降ろしてくれるように頼むところを家の近くまで送ってくれるように頼んだ。そうしたらこの話ができるんじゃないかと思った。何人かの同乗者をそれぞれの駅とか自宅近くとかで下ろし、サトウさんが前においでと言うから空になった助手席に乗り直し、いつ切り出すか迷いながらずっととりとめのない雑談をしていた。サトウさんはあの話をしたくないのかな、だから全然関係ない話をひっきりなしにふってくるのかな、あの話をすると言ったって「私はあなたが損をすることには納得がいかない」の他に言うことなんてないしな、と思っているうちに家に着いてしまい、私はとうとうその話をしなかった。

 車を降りて時間を確認しようと携帯電話をとり出すと先輩から着信があり、折り返すとたいした内容ではなくて、私はそのついでに、サトウさんの話ききましたか、といっそ聞こうか迷ってやめた。私にできることはなんにもなかった。