無題

 強く好きだと思えることがあると本当に毎日楽しい。たとえそれが「趣味のスポーツ」や「恋人」などでなく「オーストリア=ハンガリー帝国」や「桂木弥子ちゃん」であっても!!

 と、エルフェンリートに再燃した結果情緒不安定になった時とほぼ同じ行動(「エルフェンリート」を「まりんとメラン」に置き換えただけ)をいま取っている自分に危機感を覚えている私は思う。

 またこの話ですが、まりメラの最後ははっきりと結末が描かれなかったけどこれは本当に「あとはご想像にお任せします」エンドであるというより、希望を持っている人たちのために情けをかけて敢えてしっかり止めを刺すことはしなかったというだけではないかと思うのです。どうにか二人に一緒になってほしくていろいろ考えて、でもやっぱり現実的に考えると別れ別れになって二度と会えないというのが妥当なんじゃないかという気になってしまう。

 妄想や想像の世界ではどうにでもできるし幸せになってほしい二人を過剰なまでに幸せにすることはできるけど、でもそれって結局単なる「あったかも知れない幸福な可能性(実際にはない)」の話をしてるだけじゃん!現実は違うっぽいじゃん!むなしい!とか考えた後で「いや、そもそもまりメラ自体現実じゃなくフィクションだから……何を言っているんだ……」と気付く。じゃあ問題ないね!やったね!いくらでもハッピーエンドの妄想するぞ〜〜o(^▽^)o

 現実と二次元の区別がつきません。

 

 親もまた人間であり絶対的に正しい保証などない、という事実を受け入れるなんていうのは思春期のうちにやっておくべきだったのだけどまったく恥ずかしいことに今に至るまでうまくいっていない。どうにも細かい部分の倫理観だとかデリカシーだとか規範意識が私と父では違っていて、多分それは全て本当に細かいところなんだけれど私にとっては「どうしてそういったことを平気でできるのか信じられない」というようなことも含まれている。そのことをわりに最近になるまできちんと認識しおらず、そういう場面でなんかよくわからないけどいらいらする、とか、なんで?って自分でもなぜここまでしつこくと思うくらい訊いてしまうという現象が多々おこるなあと思っていた。

 うちには男の人は父しかいないので、男の人は全般的にそういうものなのかもしれない、そこにいちいち目くじらたてるのがおかしいのかもしれないと思っていた。でも少なくとも大人になってから会った男の人のほとんどはそうじゃない。もちろん父は私に家族として接する一方で「大人になってから会った男の人」は家族より遠い存在だから、父は私に気を使わず他人は気を使ってくれているというのが言動に出ているだけなんだろう。しかし「この人はきっと家族やごく親しい友人や恋人に対してもそんなことはしないだろう」と思わせられた人はいっぱいいて、少なくともそのうちの一割くらいは本当にそうだと思う。そういう人たちとは違って、父が私をそういう言動を見せても構わない身内としてカウントしているだけの話だ。

 心底いやなことはやめてくれと言うべきなんだろう。それを言わずに不満を溜められても向こうとしても理不尽だろう。けれど、その相手が私がある意味選んで付き合っている友達や恋人であれば自然にそう思えるが、そうでない親の言動にまで正直そこまでしたくない。人に迷惑をかけているならまだしも。

 私は本当に人間として最底辺なのでお金や愛情をたくさんかけてもらった結果こういう人間にしかなれなくて申し訳ないといつもいつも思って生きているし、すごく感謝もしている。ただその一方でへんに自分のものの考え方に固執していて、しかも客観的に見た場合それが大体においておそらく間違ってはいないことを自分でわかっている、あるいはそういうふうに誤認しているので、余計にそこから外れたものを見ると強く「なんで?」と思ってしまう。ので、親を無心に好きでいたいしひたすら感謝を覚えていたい(もしくはそういう自分でありたい、またはそうでなければならない)という気持ちとのあいだで矛盾が生ずる。

 昔から異様に毒親ネタに興味を惹かれたのは「育ててもらった親になんらかの疑念を抱いたからといって即人格を疑うべき親不孝者であるというわけではない」と思いたかったからかもしれないと最近考えるようになった。でも少なくも私は両親ともに「ここまでしてもらっておいて不満や疑念を抱くのはどう考えてもおかしい」と言えるくらいにはきちんと育ててもらったので(きちんと育ったかどうかは別)、完全に人格を疑うべき親不孝者です。