待ってる人はいないけど

 ピンク色もといどどめ色の話が続くことをお許しください。

 酒を飲みに飲みながら好きな人に会う約束をとりつけるメールを書いていた。本文はあっさり書けたんだけど、件名ってなにを書けばいいんだろう?会うための口実の用事はこじつけたし、それも私にとってはそこそこ大事だけれど、それを件名にすると「いや、そこまで重要な用ではない」という気分になってくる。早くても送るのは週が明けてからになると思うし、遅ければ月が明けてからに……なると、会えないかな。どうだろう。

 私にしてみれば本当に奇跡みたいだった邂逅という、一生これで暮らせるくらいの思い出があるにも関わらずなんでわざわざ会って喋っておきたいかというと、この人には言いたいことがたくさんあるからだ。特に、感謝すべきことは言い尽くせないほどあるのに私はそのうちのほんの1%も表出させていない。

 会いたいと思うことはやはり恋愛感情ではないかともちらっと思うんだけど、でも、私が同じくらいに崇拝している友人Tとこの人は何が違うのか?何も違わないんじゃないか?私はいつだってTに会いたかったし自分のいろんなことを喋りたかったし彼女のことをなんでも知りたかった。それはこの人(面倒なのでCさんとする)に抱く感情と同じだ。私はすごくCさんと恋愛関係になりたいと思ってるわけでもない。

 正直言って、私は両者のどちらに対しても、ふたりがとても耐え切れないほどの良心の呵責を感じるくらいの献身をしたい。最大限の、下品なまでの自己満足を味わいたい。それによってふたりの一点の曇りもない輝かしい人生に私という一点のしみを残したい。私は『容疑者Xの献身』の石神が羨ましくてしようがないのだ。私だって好きな人のために罪を背負った挙句「私のことは忘れてください」なんて手紙を残したい。

 

 Tとはこの春を境にかなりの距離を隔てて暮らすことになる。でも私はもう大人で、どこへだって行けるんだから、Tがいる限りどこへでも会いに行こうと思う(Tに拒否されなければ)。でもTは新しい場所できっといろんな素敵な人と出会うし、私のことはすぐに忘れるだろうと思う。そうやってTはますます自分の才能に磨きをかけて有名になるかもしれない。そうなったら私はこっそり「Tは私の友達なんだよ」って思う。そのときそれを自慢できるだけの親しい人ははたして私にいるだろうか。

 だいぶ話が逸れたが、私にとってCさんとTを分けるのは「今後会えるか否か」しかないような気がする。あるいは私がそう思いたいだけかもしれないけど。とにかくCさんは今後私が積極的に動かない限り会える可能性はすごく低い。だから焦っている。冥土の土産に会っておきたい。

 こういうふうに思うのはすごく人間としてだめな気がするが、Cさんと深く関わらない言い訳ができる環境でよかったとも思っている。私でない素晴らしい誰かがCさんを私のあずかり知らぬところで勝手に幸せにしてくれるし、Cさんもまた私でない素晴らしい誰かを私のあずかり知らぬところで勝手に幸せにしているのだろう。こういうとき江國香織の『神様の国の平和な黄昏』という言葉を思い出す。あれは自分の好きな人(元・恋人)が他の女と会っているときの気分を表現した言葉だった、たぶん。

 

 もう疲れたしいい加減きもいことを書き過ぎたのでやめようと思うけど、もうちょっと書く。

 私は本当にどうしようもなくこの世に不要な人間で、どれだけ足掻いたところで私の吐き出した二酸化炭素、排泄物、あるいは誰かに与えた不快感、捨てたゴミ、消費した食物、を贖うに足る人生は送れないはずだ。それはもう小学校の高学年くらいからわかっていた。私は健康な体を持ちながらきっと子供を産むこともなく、たくさんの税金を納めることもないだろう。だからと言って体で貢献しようと思っても貧血だから献血もできないし、私の精神が耐えられても私を指導する人の精神が耐えられないだろうからと思うと(いうまでもなくこれは言い訳です)自衛隊や警察にも入る勇気がなかった。

 しかしCさんの前に出て恥ずかしくない人間でありたいという思いは私をどうにか踏みとどまらせると思う。真人間に、と書こうとしたけどすでに真人間ではないのでやめた。Cさんのようになりたいと思っているうちは、自分が世界に与え続けるマイナスを少なくしようとどうにか心がけられそうな気がする。

 

 なんだこれと思うけど、ここはそもそもなんだこれみたいな文章を捨てる場所だったからこれでいいんだよと言い聞かせつつ後悔もとい公開する。