地獄の演歌

 またしても「たびしカワラん!!」について(エクスクラメーションマーク二つだったんですね。一つだと思っていました)。

 わざわざ書くような話ではないと思うんですけど、ただ五話の、講義中の瓦屋先生の台詞がとてもいいということをどこかに残しておきたかった。

「——そうと分かれば、何があっても何を言われても今までよりかは怖くなくなるだろ?」

「何を言われたって怖くないなら大抵のことは許せる気にならないか?」

「無限と多様はこの世に必要で必然なんだから自然の行動もそう、

何をしようと怖がることはない。何でもできるはずなんだ」

「言葉で喜んだり悲しんだりするけど 言葉自体は暴けばちっぽけで、恐ろしい存在ではない」

「そんなものに自分の歩みを止めるほどの能力はないんだよ」

ここに至るまでの台詞もとてもいいのだけど、長いのでこれだけにしておきます。

本当に、「大抵のことは許せる気にな」るし、「何をしようと怖が」らずにいられるようになります。瓦屋ちゃんの発言である、というのもあるんだろうが、どんな感情論よりも理屈の方が感情に強く訴えかけて考え方や感じ方を変えてしまうような場合があるのだなあと。

 そう言えば呪いについての講義を受けたことあったなあ。もうほとんど忘れたが、確かに、「人が「呪いだ」と思った場所には必ず「呪い」が存在する」というような話題は出ていた…ような気がする。

 

 東工大の「素数だああああああああ!」ネタはだいぶ大袈裟だろうと思っていたのですが、(東工大の方ではありませんが)数学科出身で、結婚記念日を素数にしようと画策していた方を見て「マジだったのか…!」と思いました。

 

 たまに、出来心で暗い夜道を通る。敢えて一番街灯や人通りの少ない道を選んで、自分の足音が聞こえない音量で音楽を聴きながら、なるべく後ろを振り返ったり早足にならないようにしながら、場合によっては携帯をいじりながら、歩く。怖くなったら、挙動不審になったら、イヤホンを抜いたら負け。「自分は醜いからこんな所をふらふらしていたって襲われやしない」「そのことによって自分の醜さを再確認して身の程を弁える」というのがこんな奇行をする趣旨なのだが、間違っていることは分かっている。何も夜道に現れるのは痴漢や強姦魔だけでなく、引ったくりだってかつあげだって強盗だって現れ得る。それに痴漢や強姦魔も、あんまり暗くては容姿は分からないかも知れないし、何より穴がついてりゃ何でも良いみたいなタイプだっていっぱいいるだろう。こんなことしてる女がいなければ起こらなかった犯罪を引き起こしてしまう危険性はゼロではない。私一人の被害で済めば良いが、そうなるとは限らない。人に迷惑を掛けることは十分に考えられる。だから意識的にこんなことをやるべきじゃない。分かっているのだが、たまにどうしてもやりたくなって、前述の趣旨を自分に言い聞かせながらやってしまう。

 

 虚構新聞の社主、というか、楠木坂コーヒーハウスのUKさんは好きだし、イギリス的ユーモアの持ち主だと思っているので批判されると結構辛い。あ、イギリス云々に関しては「私にはよくわからないけど多分そうなんだろう」という予想です。ユーモアのセンスが皆無なので、この方の文章を読んで「なんかよくわかんないけど高度な面白さを備えている気がする」「この方はイギリス文化が好き」イコール「この方は高度なイギリス的ユーモアを持ち合わせているのだろう」という短絡的な思考が働く訳です。

 そもそもこういうものに対して真面目な批判を行うのは無粋、という立場なんですが、この立場が成立する為には、「こういうもの」が無粋な批判を受け付けない程度には「粋」である必要があるんですよね。そしてセンス皆無な私はその判断に自信が無いので、これは全然センス無い!粋じゃない!面白くない!だから真面目に批判したって何が悪い!と言われると何も言い返せない。